シンガポールを視察してきました4~マルチリンガルへの道 中篇~
こんにちは!
「かしこい塾の使い方」
主任相談員の小川です。
「かしこい塾の使い方」
主任相談員の小川です。
前回に続き、
「言葉と思考」についてお話を続けていきます。
わが子をマルチリンガルへ導く上で、
ぜひ考えておきたいテーマです。
前篇では、
【言葉数=精神年齢】
という視点から、
単に外国語環境に子供を置くだけでは、
子どもの成長に問題が生じかねないことを、
お伝えしました。
使える言葉の数によって、
見える世界が変わってくる、
人の気持ちを理解できる細やかさも変わってくる、
のですね。
見える世界が変わってくる、
人の気持ちを理解できる細やかさも変わってくる、
のですね。
ですから、
お子さんを複数言語の環境で育てる場合、
お子さんにとっての中心言語については、
十分なボキャブラリーを育んでいくことが大切です。
そして、もちろんのことながら、
「考える力」についても、
使える言葉の数が大きく影響してきます。
使える言葉の数が大きく影響してきます。
私たちが「考える」時、頭の中で起きている働きとしては次のようなものがあります。
1.まとめる(抽象化)
2.分かりやすく噛み砕く(具体化)
3.分ける(要素化)
4.比べる(対比)
5.原因の追求・未来の予測(時間軸の移動)
6.視点を変える(パラダイムシフト)
それぞれについては、また改めて説明していきたいと思いますが、
いずれの働きについても共通する点があります。
それは、
「対象をとらえることから思考は始まる」
という点です。
何かについて考えようとするには、
まず「何」が見えている必要があるのです。
そのためには、「何」についての言葉が必要です。
逆にいえば、言葉の数が多ければ多いほど、
「何」がたくさん見えてくることとなり、
考えるチャンスがその分増えていくのです。
あえてものすごく単純化して話しますが、
日本語で5万語のボキャブラリーを持っているけれど、
英語は全く話せない9歳児と、
日本語と英語が話せるけれど、
いずれもボキャブラリーレベルは2万語の9歳児
を比べた場合、
「考える力」に限定して言えば、
日本語しか話せない児童の方がはるかに力があると予想されます。
世界を相手に活躍している方がよく、
「英語はただ話せるだけでは意味がない。大事なのは中身だ」
とおっしゃるのも同じことですね。
そういえば私は今年、
SS-1のある教室において衝撃的な体験をしました。
5年生のお子さんについて、
学習相談にいらっしゃったご家庭の話です。
私立中学受験をさせたいと考えてらっしゃったのですが、
お子さんの学力がかなり苦しい状態だったのです。
塾での成績も、全体の中でほぼ最下位といった状態なのですが、
小学校においても勉強に苦労していました。
小学校の教科書レベルのことが分からないのです。
勉強させていないわけではなく、
父母ともに熱心に関わってらっしゃいました。
でも文章が読めない。
理科も社会も授業内容が理解できない。
算数も3年生ぐらいからつまずいて、
分数の足し算はさっぱり分からない。
そんな状況でした。
父母の熱意とお子さんの状況とが、
あまりにちぐはぐなのです。
いわゆる「機能的学習障害」の可能性も考えたのですが、
本人と会話してみると、そういうことでもなさそうです。
「これは何か特別の事情があるな」
と感じましたから、
ご両親のお気持ちをくみ取りながらも、
これまでの子育て状況を具体的に伺うこととしました。
すると、本当に驚いたのですが、
お子さんの学力不振は、完全に、
ご両親の育て方が間違っていたからだ
ということが分かったのです。
なんとそのお母さんは、
お子さんが生まれた時から、
家庭内の会話を英語で押し通して来られたというのです。
ご両親ともに日本生まれ、日本育ちの方々ですよ!
ただお母さんが英語の先生で、
「子供はバイリンガルに育てたい」という
強い思いをお持ちだったのですね。
お子さんは生まれた時から、
家庭内でお母さんからは英語で話しかけられ、
お父さんとは日本語で話し、
保育園、公立小学校では普通に日本語環境で過ごすこととなりました。
その結果何が起きたか?
彼は同世代の子と、
日本語でコミュニケーションを上手に取れなくなったのです。
学校の授業も先生が何を言っているのか、よく分からない。
テレビを見ていても、映像としては楽しむのだけれど、
セリフが頭に入ってこない。
当然ながら学力は全く伸びません。
会話がかみ合わないため、
友達づきあいもあまり広がりません。
彼はすっかり勉強が苦手で、
引っ込み思案な子に育ってしまいました。
さらに不都合なことには、
お父さんの算数の教え方が、
彼には全く合っていなかったのです。
お父さんはいわゆる「理系」の方で、
物事のメカニズムをとても大切になさる方でした。
お子さんに算数を教えるにあたっても、
「本質」を重視して、
「なぜそうなるのか」を一つ一つ、
きっちり理解させようとがんばってらっしゃったのです。
一般的な話としては、
計算の一つ一つについてまでも
「なぜ」を大切にしていくことは間違ってはいません。
(あんまりこだわると子供がイヤがるという問題はありますが・・・)
しかし、彼の場合は取るべき方法ではありませんでした。
「なぜ」と理屈で考えていくには、
彼のボキャブラリーは余りに不足していたからです。
当然のことながらお父さんの説明が彼には理解できず、
むしろドリル形式で機械的に反復させてあげれば、
それほど苦労なく乗り越えられたであろう
かけ算の九九や割り算などで、
ことごとくつまずいてしまいました。
そして彼は算数に対して、
すっかり自信をなくしてしまったのです。
彼にとって悲劇だったのは、
お母さん、お父さんともに、
お子さんの学力不振が自分の教育方法にあるとは、
決して受け入れようとなさらなかったことです。
彼らが取ったのは、
夫婦間でただお互いを非難しあうという選択でした。
そして学年が上がるにつれて、
ますます自分自身の育て方に固執するようになってしまったのです・・・
今年の5月に本当にあった話です。
もちろんこのケースは余りに極端な例です。
しかし、言語教育を間違って行うと、
何が起きるのかを知るには参考になる事例だと思います。
お子さんの思考力、理解力を育てていくには、
中心となる言語を十分に育くむことが大切なのですね。
そしてさらに、日本人が他言語の環境で育つ場合、
もうひとつ気をつけておきたいポイントがあります。
「コンテクスト」の問題です。
コミュニケーション力を伸ばしていく上では、
この「コンテクスト」への考慮が避けては通れないのですが、
その話は後篇にて。
出会う方全ての可能性を
拓いて参りましょう!